-歴史・見どころ-
織田信長の時代に、ヤソ会によって建てられた南蛮寺は、
この北側、姥柳町の地にあったと推定されています。
戦国末期、京都でのキリスト教布教は、
永禄2年(1559)から本格化し、
永禄4年にこの付近に礼拝堂が設けられました。
数々の迫害にあいながら、ヤソ会宣教師は、布教に努力し、
織田信長の保護もあって信者は拡大しました。
天正4年(1576)古くなった礼拝堂を再建する事にし、
数百人の信者の協力と所司代村井貞勝の援助で完成、
献堂式のミサが行われました。
これが南蛮寺で、信者の間では、
珊太満利亜上人の寺とも呼ばれ、
京都におけるキリスト教と南蛮文化の中心となりました。
しかし、天正15年(1587)九州征伐を終えた豊臣秀吉は
宣教師追放令を発しキリスト教弾圧に転じました。
南蛮寺もこの時に破壊され、
ついにこの地には復興されませんでした。
一説には本能寺と南蛮寺は
地下の秘密の抜け穴で繋がっており、
本能寺の変で強襲を受けた信長は、
この通路を使って逃げようとした所、
秀吉の配下山衆によりすでに遮断されて逃げられず、
崩れてきた岩石に退路も立たれ、
この場で自刃したという説もあります。