倒幕側 ○ 戦闘 ★
その他 □
地下鉄烏丸線「丸太町」
↓ 徒歩10分
★ 堺町御門(さかいまちごもん)
山崎勢(久坂玄瑞・真木和泉)は前日午後8時ごろ
山崎を出たが悪路により遅れました。
午前8時頃に柳馬場通りを北上し、堺町御門に到着した頃には、
すでに来島又兵衛は戦死した後でした。
↓ 徒歩5分
□ 九条家庭園(くじょうけていえん)
九条家庭園は、拾翠亭の前に広がる
池泉回遊式の広い庭園です。
↓ 徒歩5分
□ 閑院宮邸跡(かんいんのみやていあと)
御苑の南に位置する閑院宮家の
屋敷だった建物です。
江戸期に建てられたものです。
↓ 徒歩5分
★ 鷹司邸跡(たかつかさていあと)
五摂家だった鷹司家の屋敷跡。
屋敷・庭園など当時の面影を偲ばせるものは
一切残っていませんが、
唯一、庭園の庭石と思われる大きな石が
いくつか残っています。
↓ 徒歩10分
★ 蛤御門(はまぐりごもん)
蛤御門の戦いとは、
元治元年(1864)7月19日京都御所蛤御門近くを中心に、
長州藩が薩摩、会津藩などと戦った事件のことです。
↓ 徒歩5分
★ 松平容保指揮所跡(まつだいらかたもりしきじょあと)
凝華洞(ぎょうかどう)
-歴史・見どころ-
蛤御門の戦いで京都守護職松平容保が
幕府軍の指揮をとった場所です。
↓ 徒歩5分
□ 建礼門(けんれいもん)
-歴史・見どころ-
天皇が臨幸される時に開かれる門です。
孝明天皇が1863年上下加茂神社・石清水神社に
行幸された時に開かれました。
↓ 徒歩10分
★ 来島又兵衛戦死地跡(きじままたべえせんしちあと)
禁門の変では遊撃隊力士隊を率いて出軍し、
嵯峨天龍寺から蛤御門において戦う中、
会津兵に狙撃され戦死しました。
↓ 徒歩10分
★ 乾御門(いぬいごもん)
西郷隆盛の率いる薩軍は藩邸近くの
乾御門を護衛していたが、
会津藩に加勢して蛤御門に急行し、
足に流れ弾を受けて負傷しました。
↓ 徒歩8分
○ 薩摩藩邸跡(さつまはんていあと)
現在同志社大学。
石碑は同志社大学西門前にあります。
幕末の薩摩藩は公武合体派を推進する
中心的な藩の一つとして、
京都における様々な事件に関係していました。
↓ 徒歩5分
□ 冷泉家屋敷(れいぜいけやしき)
冷泉家の祖先は、藤原定家の孫で
冷泉為相(ためすけ)(1263〜1328)と言います。
その家系により、『和歌の家』として
800年の長い歴史を歩んできたそうです。
↓ 徒歩6分
□ 桂宮邸跡(かつらのみやていあと)
皇女和宮が将軍家茂に降嫁の出発跡です。
この邸は安政元年の禁裏御所炎上後、
仮御所となっていました。
↓ 徒歩3分
☆ 朔平門(さくへいもん)
桧皮葺の四脚門で女御入内の時などに開かれていました。
この門外・猿ヶ辻で姉小路公知卿が暗殺される事件があり、
この事件を朔平門外の変と言われています。
↓ 徒歩2分
☆ 猿ヶ辻(さるがつじ)
邪気の侵入をふせぐために
築地の角を内側に切り込み、
御幣をかついだ木造の猿を浮き彫りにしている事から
『猿が辻』と言われるようになりました。
↓ 徒歩5分
□ 松木の桜(まつきのさくら)
黒松の中に桜が生え珍重されていました。
平成8年4月17日倒木し松は枯れましたが、
桜は生え続けています。
↓ 徒歩5分
□ 学習院跡(がくしゅういんあと)
孝明天皇は弘化4年(1847年)空地の一部に学習院を建て
40歳以下の公家をはじめ、
御所に勤めている役人たちとその子弟に
学問を教えることにしました。
↓ 徒歩7分
★ 寺町御門(てらまちごもん)
薩摩軍が横合いから来島隊に激しい砲火を浴ぴせた為に、
形勢は一挙に逆転し来島が戦死し、
国司の部隊は総崩れとなって、
寺町御門方面へと退却します。
↓ 徒歩7分
○ 梨木神社(なしのきじんじゃ)
京都御苑東側の寺町通りに面して建つこの神社は、
明治維新の功労者として知られる、
三条実万(さねつむ)・実美(さねとみ)父子を祀る神社です。
↓ 徒歩3分
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