日本書紀によると応神天皇14年に
弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が
朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというが、
加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている。
ハタ(古くはハダ)という読みについては
朝鮮語のパダ(海)によるとする説のほか、
機織や、新羅の波旦という地名と結び付ける説もある。
その後、大和のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、
同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、
河内国讃良郡(現在の寝屋川市太秦)など各地に土着し、土木や養蚕、
機織などの技術を発揮して栄えた。
山背国からは丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)にも進出し、
湿地帯の開拓などを行った。
雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が各地の秦部、秦人の
統率者となったという。
欽明天皇の時代には秦大津父(おおつち)が伴造となり大
蔵掾に任ぜられたといい、
本宗家は朝廷の財務官僚として活動したらしい。
秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦が分かっているが、
河内国讃良郡太秦にも「太秦」と同名の地名がある。
河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、
付近の古墳群からは5,6世紀にかけての渡来人関係の遺物が
出土(太秦古墳群)している。
秦氏が現在の淀川の治水工事として茨田堤を築堤する際に協力したとされ、
現在の熱田神社が広隆寺に記録が残る河内秦寺(廃寺)の跡だったとされる
調査結果もある。
そして、伝秦河勝墓はこの地にある。
また、山背国太秦は秦河勝が建立した広隆寺があり、
この地の古墳は6世紀頃のものであり、
年代はさほど遡らないことが推定される。
秦氏が現在の桂川に灌漑工事として葛野大堰を築いた点から
山背国太秦の起点は6世紀頃と推定される。
よって、河内国太秦は古くから本拠地として重視していたが、
6世紀ごろには山背国太秦に移ったと考えられる。
山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、
その発展に大きく寄与した。
山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の
鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる。
秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、
それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、
山背国でももっとも創建年代の古い神社となっている。
秦氏の末裔はこれらの社家となった。
秦氏で最も有名な人物が秦河勝である。
彼は聖徳太子に仕え、太秦に蜂岡寺(広隆寺)を創建したことで知られる。
またほぼ同時代に天寿国繍帳(中宮寺)の製作者として秦久麻の名が残る。
八色の姓では忌寸の姓を賜り、その後、忌寸のほか、公、宿禰などを
称する家系があった。
平安遷都に際しては葛野郡の秦氏の財力・技術力が重要だったとする説もある。
平安時代には多くが惟宗氏を称するようになったが、
秦氏を名乗る家系も多く残った。
東家、南家などは松尾大社の社家に、西大路家、大西家などは
伏見稲荷大社の社家となった。
伏見稲荷大社の社家となった羽倉家、荷田家も秦氏の出自という説がある。
また、高僧を含めて僧侶にも秦氏の出身者が多数いる。